黒死館殺人事件(10)
2024年01月12日 (金) | 編集 |
第六篇 算哲埋葬の夜

○一、あの渡り鳥……二つに割れた虹

「紙谷伸子の登場――それが、この事件の超頂点(ウルトラ
クライマックス)だった」という一文で始まります。

算哲の秘書・紙谷伸子とは、初日に現場へ入った時に
一瞬すれ違っています。でもそれ以降は、伸子が鐘鳴器で
気絶しているところを見ただけで、話す機会はありませんでした。
どんな人でどんな話が聞けるのか、興味あります。

年齢23、4の伸子はぽっちゃりしていて、目がくりくりしている。
黒死館の人々のような妙な暗さはないが、さすがにこの3日間の
できごとで、憔悴している様子。

こちらが何か言う前に伸子が口を開く。
「私、告白致しますわ」
いかにも、鐘鳴器室で気絶した際には鎧通しを握っておりました。
易介さんが殺された前後にも、今日のクリヴォフ様の出来事当時
にも、私だけにはアリバイが恵まれて居りません。
私には固有の精神障害があって、時折ヒステリーの発作が起ります。
凡てが揃いも揃って、明瞭すぎるくらいに明瞭なんですわ。
「もう私には、自分が犯人でないと主張するのが厭になりました」

伸子は自分が疑われていること、かなり立場が悪いことを
自覚しているらしい。

法水は「いや、そう云う喪服なら、屹度すぐに必要なくなりますよ」
と、一瞬フォローしたかと思いきや、
「もし貴女が、鐘鳴器室で見た人物の名が云えるのでしたら」
とバッサリやる。

気が短い熊城は、朦朧状態の時に書かせた自署のくだりを問い詰める。
「貴女にとれば一生浮沈の瀬戸際でしょう。重大な警告と云う
意味を忘れんように……」
と半ば恫喝のように厳しく迫る。

検事も、声は諭すような調子だが
「さあ、そのXの実数を云ってください。降矢木旗太郎……?
誰の事なんです?」

伸子は真っ青になり逡巡したが、
「鍵盤のある刳り込みの天井には、冬眠している蝙蝠が
ぶら下がって居りました。蛾も1、2匹生き残っていました。
あの動物たちに聞けば、教えてくれるでしょうね。
それとも、それが算哲様だった――とでも申し上げましょうか」
きっぱりと回答を拒否した。熊城がすごい顔になる。

法水は組んだ手をズシンと卓上に置く。
「算哲……。あの凶兆の鋤――スペードのキングをですか」
「いえ、算哲様なら、ハートのキングでございますわ」
伸子は反射的に答えてため息をつく。

「あの難行をお命じになったのは、クリヴォフ様なんでございます。
何時もならレヴェズ様がお弾きになるあの思い鐘鳴器を、女の私に
しかも三回繰り返せよと仰有ったのです。
最初弾いた経文歌の中頃になると、朦朧としてきました。
何を弾いているのか無我夢中の癖に、寒風が顔を斑に吹き過ぎて
行く事だけは妙にはっきりと知る事が出来ました。
漸く三回目を終え、階下の礼拝堂から湧き起こってくる
鎮魂歌を聴いていた時、突然私の顔の右側に、打ち衝って来た
ものがありました。その部分に焮衝が起こり、熱っぽく感じました。
その刹那、身体が右の方へ捩れていって、それなり、何も
判らなくなってしまったのです」

伸子の陳述は三人を困惑させる。

右側から襲ったものがあるとすると、そこにはちょうど
階段を上がって突き当たりのドアがある。

鎧通しを握っていたことから、伸子は自分自身でさえ、
自分が犯人だと思わざるをえない、それに今日の事件だって
「あの赤毛の猿猴公(えてこう)が射られた狩猟風景にだっても、
私にはアリバイと云うものがございませんものね」
と自棄になっているのか、過激なことを言う。
(検事が「今、エテ公って言いました?」って聞き返していて
おもしろい)

「大体クリヴォフ様が殺されようたっても、悲しむような
人間は一人もいないでしょうからね。ほんとうに、生きて
いられるよりも殺されてくれた方が……」とまで言う。
クリヴォフ夫人そんなに嫌われてたのか。こんな少人数の世界で。

特にクリヴォフ夫人の死を願っているような人物がいるなら
教えてくれ、と言われ、「私がそうですわ」と答える。

以前内輪に算哲の遺稿を秘書である自分の手から発表した時、
その中に、クミエルニツキー大迫害に関する記録があった。
内容は申し上げられないが……どんなに惨めになったことか。
無論その記録は、その場でクリヴォフ夫人が破り捨てた。
それ以来敵視を受けるようになって、今日だって、
たかが窓を開けるだけに呼びつけて、あの位置にするまでに、
何度上げ下げした事か。

(クミエルニツキー大迫害とは、17世紀のコーカサスユダヤ人の
迫害の最も大きなものらしい。法水だけ知っていた)

今日のアリバイがなぜなかったのかを訊ねると、
「あの当時 "樹皮亭"(本館の左端近く)の中にいたんです。
あそこは美男桂の袖垣に囲まれていて、何処からも見えません。
逆に武具庫の窓も見えないので、ああ言う動物曲芸のあった
事さえ、てんで知らなかったのです。
悲鳴はもちろん聴きましたとも。
ですけど、どうしても私は、あの樹皮亭から離れる事が
出来なかったのです」

その理由を熊城が聞いても、答えない。

悲鳴の一瞬前、窓の傍らに不思議なものを見ました。
形のはっきりしないすきとおったものが、窓の上方の外気の
中から現れて、斜めに窓の中へ入り込んで行くのでした。

熊城は、唯ならぬ決意を泛べて言い渡す。
「この数日間の不眠苦悩はお察ししますが、然し今夜からは
十分寝られるように計らいましょう。捕縄で貴女の手首を
強く絞めるんです。そうすると全身に貧血が起こって、
次第にうとうととなって行くそうですから」
ひどい。

伸子は両手で顔を覆って、卓上につっぷしてしまう。
そりゃそうだよなぁ。
隠し事してるという怪しい点はあれども、これだけの嫌疑で
犯人として捕縛することが法的に可能なんだろうか?

警察自動車を呼ぼうと熊城が受話器を取り上げた時、
法水がコードの先のプラグを壁からポンと引き抜いて、
伸子の掌の上に置いた。(ここちょっとカッコいい)
熊城も伸子も唖然とする。
「貴女もクリヴォフ夫人も、あの渡り鳥……虹に依って
救われたのですよ」

法水は何かを理解したようで、
「僕は心から苦難を極めていた貴女の立場に御同情しますよ」
とまで言う。
伸子は、理解されたのがめちゃくちゃ嬉しかったようで、
「ああ眩しいこと……。私、この光りが、何時かは必ず
来ずにはいないと……それだけは固く信じてはいました」
と言いながら立ち上がって、耳に拳を当ててくるくる回る。
急にすごい元気になってる。
「鐘鳴器室の真相と、樹皮亭から出られなかった事だけは
云えませんけど、サア、次の訊問を始めて頂戴」
バン、とテーブルに手をついて、髪をバサっと跳ね上げて
言います。が、

「いや、もうお引き取りになっても」
と、法水は伸子を追い出しちゃいます。
この人ほんと、自分のしたいことしかしませんね。

容疑者対象がいなくなってしまった熊城は、法水が抜いたプラグを
床へバーン!したりしてイライラする。
法水は平然と「ねえ熊城君。これで愈々、第二幕が終わったのだよ。
多分次の幕の冒頭にはレヴェズが登場して、それから、この事件は
急降的に破局(キャタストロフ)へ急ぐ事だろうよ」
法水の中ではかんぜんに、次の犠牲者が決まっているらしい。

伸子とのやりとりで2点、気になったことがありました。

寒風が顔を吹き過ぎた……ということは、その時ドアか窓が
開いたということでしょうか。(犯人が入ってきた?)

クリヴォフ夫人が窓の開き具合を細かく調整した……という
ことに、何か理由があるのでしょうか。

さきほど、押鐘博士が来邸した旨 報告があったので、この後は
博士と面会するのかなと思ったら、急に部屋に鎮子が現れます。

「法水さん、私、真逆とは思いますわ。ですけど、貴方は
あの渡り鳥の云う事を、無論そのままお信じになっているのじゃ
ございますまいね」

自分が使った「渡り鳥」という言葉を鎮子も使ったので、
法水は驚く。伸子のことかな?と思ったけれど違って、
「左様、生き残った三人の渡り鳥の事ですわ」
外国人の方のことでした。
「ああ云う連中がどう云う防衛的な策動に出ようと、
津多子様は絶対に犯人ではございません」
鎮子の家族に対する感情が少し覗けます。

押鐘博士は、自身が経営する慈善病院に私財を蕩尽してしまい、
その維持のため、隻眼を押してまで津多子は再び
脚光を浴びなければならなくなった。

「されど門に立てる者は人を妨ぐ――ですわ。法水さん、
貴方はこのソロモンの意味がお判りになりまして。
あの門――つまりこの事件に凄惨な光を注ぎ入れている、
あの鍵孔のある門の事ですわ。其処に、黒死館永生の秘鑰
があるのです」
と言った鎮子に法水は、
「それを、もう少し具体的に仰有って頂けませんか」
と言います。

おまいう・・・

ちなみに「秘鑰」はひやくと読み、秘密のかぎ。また、
秘密などをときあかす手段。とのこと。
そんなものがあるなら、ぜひ具体的に早く教えて欲しい。

これに対する鎮子の返答は
「それでは、シュルツの精神萌芽説(プシアーデ)を
御存知でいらっしゃいますでしょうか」
でした。
"具体的"って、そういうことじゃないのよ・・・

「黒死館殺人事件」は、検索するとサジェストに
「黒死館殺人事件 読みにくい」って出てきます。
衒学趣味(ペダントリー)に埋め尽くされていることが
その所以だと思います。
私もそれに翻弄されて、ここまでおろおろとやってきた
わけですが、そろそろ分かってきたことがあります。

「筆者」はまともなんですよ。

地の文は、別に衒学的ではないんです。普通に読めます。
とにかく登場人物の発言が、衒学的。
そしてたとえば何かを人に訊ねたとき、ある程度返答は
「それは○○です」とか「それは○○だからです」とか
であるべきです。それでこそ、会話が成り立つんです。

でもこの館の人たちは、それをまともに答えない。
訊かれたことに答えず(答えているつもりなのかも
しれないけれど)何かの作品のセリフを口ずさんで、
それで話が進んでいく。

一般的に、人は相手に合わせて、分かるように話をしますよね。
専門家は素人に何かを教える時、易しくかみ砕いて説明します。
アニメに詳しくない人に、急に、昨日見た○話のここが
どうで……みたいな話を始めたりしません。
黒死館の人たちは、そういう気遣いが全くない。
だからこっちは何にも分からない。
問題は、彼らのコミュニケーション能力なのではないかと
思い始めてきました。

でも考えてみたら家族は生まれてから40年ないし17年、
この館に閉じ込められているわけですよね。
使用人も、嫌なら辞めればいいわけで、こんな館で
わざわざ働いているのはどこか変わってるからなのかも。
そう考えると、変人ぞろいなのは説明がつく気がします。
まともなコミュニケーション能力が育つ環境では
ないですよね。

そしてそこへ、彼らを凌駕するほど振り切った探偵が
やってきてしまったので、ここまでわけがわからない状況に
なっているのかもしれません。

とにかく、精神萌芽説というのは不死説みたいなものらしく、
算哲かディグスビイがまだ生きているというのか? と
法水は訊ねる。
すると鎮子は「ディグスビイ」の名が出たのは意外だったのか、
はめていた指輪をくるくるしたり抜き差ししたり、
落ち着きを失う。法水はそのタイミングを逃さず、
「ハハハ、莫迦らしいにも程がある、あのスペードのキングが
まだ生きているなんて」と笑ってみせると、
「いいえ、算哲様なら、ハートのキングなので御座います」
と反射的に答えた鎮子はハッとする。
いろいろごちゃごちゃ言い訳するが、
「ねえ久我さん、どうして、迫害の最も激しいコーカサスで、
半村区以上の土地領有が許されていたのでしょう。
しかしその区画主の娘であると云う此の事件の猶太人は、
遂に犯人ではありませんでした」
と言われると、全身がおののきだす。

「貴女は、算哲博士の事をハートのキングと云われましたね。
それと寸分違わぬ言葉を、僕は伸子さんの口からも聴いたのです」

骨牌(カルタ)札の人物像はどれも、上下の胴体が左削ぎの
斜めに合わされていて、心臓の部分が相手の外套に隠れている。
その失われた心臓が、右側の上端に、印となって置かれている。
ハートのキングという一言は、算哲博士が右側に心臓を持った
特異体質者ということだ。

トンデモ理論で、検事も熊城も声が出ない。

算哲博士は左胸を刺していたが、あまりに自殺の状況が
顕著だったために、剖検が要求されなかった。(マジか)
そうなると、それは即死に値したのでしょうか。

「ああ、何もかも申し上げましょう」
ついに鎮子が言う。
「如何にも算哲様は、右に心臓を持った特異体質者で
御座いました」

でも鎮子は算哲が自殺したというのが信じられず、
皮下にアムモニア注射をしたらしい。(いいの??)
するとはっきりと、生体特有の赤色が浮かんできた。
怖ろしいことに、あの糸が、埋葬した翌朝には切れていた。

「その糸と云うのは」
と検事が、鋭く聞いてくれます。
肝心なところなのに、この返答がまたしても分かりづらい。

算哲様は早期の埋葬をひどく怖れていたので、
大規模なクリプト(たぶん地下礼拝堂)を作り、
密かに早期埋葬防止装置を設けておいた。
埋葬式の夜、私はまんじりともせず電鈴の鳴るのを待ったが
何事もなく、翌朝、大雨の夜明けを待って裏庭の墓を見に行った。
七葉樹(とち)の茂みの中に、電鈴を鳴らすスイッチが
隠されているからだ。
するとそのスイッチの間には、ヤマガラの雛が挟まれていて、
取っ手を引く糸が切れていた。
ああ、あの糸はたしか、地下の棺中から引かれたに相違ない。
棺のも、地上のカタファルコの蓋も、なかから容易に
開くことができるのだから。
(でも勇気がなくて、墓穴は見に行かなかった)

棺の中で息を吹き返した場合に、それを地上に伝える手段
ということですよね。
その日かそれ以前かは分からないけれど、山鳥がひっかかって
装置は故障していた。と。
いや、なんで見に行かないの?? 見に行けばいいじゃんね。
糸が引かれて切れたなら、博士は生きているわけで、
死体は転がってないんだから、怖くないのに。

その事実(心臓の位置と、早期埋葬防止装置のこと)を
知っているのは誰か、と法水が訊ねる。
自分と押鐘博士だけだ、と鎮子は答える。
だから伸子がハートのキングと言ったのは偶然だ、と。

鎮子は怖くなったのか、熊城に警護を頼んで出て行く。
熊城は、「やれることは全部やろう、令状があろうと
なかろうと、算哲の墓を発掘するんだ!」と叫ぶ。

法水はうなずかない。
「いま鎮子は、それを知っているのが、自分と押鐘博士
だけだと云った。そうすると、知らないはずのレヴェズが
どうして算哲以外の人物に虹を向けて、あんな素晴らしい
効果を挙げたのだろう」

虹!? と検事が叫ぶ。
そういえばさっきも虹がどうとか言ってたな。

噴水を4回踏み、最初のところへ戻ってもう一度踏むことで
対流が起き、虹が発生する。
火術弩が落ちていた場所では、虹の赤色がクリヴォフ夫人の
赤毛に対称し、ねらいを狂わせるような強烈なハレーションが
起こる。特に隻眼ならなおさら。
あの渡り鳥――それはまずレヴェズの恋文となって、
窓から飛び込んできた。それが偶然クリヴォフ夫人の
赤毛の頸を包んで、それに依って射損ずるような欠陥の
あるものと言えば、津多子をさておいて、他にはないのだよ。

恋文? と検事が聞きとがめる。

そういえば確かに、クリヴォフ夫人に命じられて、
伸子が窓の開閉を調節していた……!
これが本当なら、クリヴォフ夫人は伸子にした意地悪?の
おかげで、命拾いしたことになるのか。

レヴェズはそれを見て伸子が武具室にいると思い、
噴泉の側らで、あの男の理想の薔薇を詠ったのだよ。

検事と熊城は、証拠がないだけに半信半疑というか、
なぜ虹なんかにこだわって、肝心の算哲の墓の発掘を
行わないのだろう――ともどかしく思った。(同感……)

斯うして、一旦絶望視された事件は、短時間の訊問中に
再び新たな起伏を繰り返して行ったが、続いて、
現象的に希望の全部が掛けられている、大階段の裏――
を調査することになった――それが五時三十分。

この終わり方カッコいい。
でも気になる。押鐘博士が待たされっぱなしなことが。


○二、大階段の裏に……

大階段の裏には、テレーズ人形の部屋と、その隣の
小部屋の2つがある。まず小部屋へ入る。ここは
鍵がかかっていなく、窓もなくて真っ暗。

ドスドス歩いて回る熊城の後ろで、検事が鈴の音を
耳にして(テレーズ人形の足音……!?)とゾッとする。

熊城は隣の部屋へ駆け込もうとするが、法水が爆笑する。
「憶い出し給え、古代時計室にあった人形時計の扉に、
一体何と云う細刻が記されていたか」

フィリップ2世から梯状琴(クラヴィ・チェンバロ)を
拝領した、と書いてありました。
それがこの壁の中にあり、テレーズ人形や熊城が歩く際の
振動でふるえて鳴ったのだろう、と法水は言います。
あの情報、こんなところに効いてくるのか。

壁には隠し扉などはなかったので、一部を手斧で破壊した。
無数の弦が鳴り響くような音がする。
隣の部屋の壁との間にやはり空洞があった。
中にはチェンバロ以外には隠し扉も秘密階段も揚蓋もない。
埃まみれになった熊城が、ただ1冊の本を持って出てきた。

この作品、みなさんもお気づきだと思うけれど
挿図が豊富なんですよね。現場の状況とか、十二宮図とかまで。
でも、「黒死館間取り図」はないんですよ。
このおかげで、部屋の位置なんか一生懸命描写しているし、
それでも限界があるから、あんまりよく分からなくて、
館の図面があればもっとしっかり把握できて
良いのになと思っていました。

でも、きっと隠し部屋があるんだろうな、って思ってたんです。
図面載せちゃうと、不自然なところが出ちゃうから
載せられないんだろうな、って。
小栗虫太郎自身は、見取り図を描いてたんじゃないかな。
そういう作業好きそうな気がする。

前の部屋へ戻ってその本を開く。
ホルバインの「死の舞踏」の初版らしい。
これは実在の画家の実在の木版画集。
"死の舞踏"というモチーフは、戦争やペストの流行を背景に
さまざまなジャンルで取り上げられたもので、中でも
ハンス・ホルバインの木版画集は、大ベストセラーだったとのこと。

余白にディグスビイの自筆で書き込みがある。

Quean locked in Kains. Jew yawning in knot.
Knell karagoz! Jainists underlie below Inferno.

――尻軽娘はカインの輩の中に鎖じ込められ、猶太人は難問の
中にて嘲ざ笑う。凶鐘にて人形を喚び覚ませ、ジャイナ宗徒
どもは地獄の底に横たわらん(たぶん筆者の意訳)

さらに、創世記をだいぶ失礼にイジった文章も続いている。

 kokusikan17.jpg

尻軽娘というのはテレーズのことだろう。
猶太人は自分(ディグスビイ)のこと。
算哲博士との三角関係や、ディグスビイの呪詛が感じられる。
法水は文中の文法の幼稚なミスや冠詞がないことを指摘するが、
後の文章との関連などは分からず仕舞い。

広間へ行って、押鐘博士に遺言状の開封を依頼することにする。
広間に押鐘博士は、旗太郎といっしょにいた。

押鐘博士は50代で、包容力を感じる男性。顔立ちは整っている。
博士は妻を救ってくれたことを法水に感謝し、
「一体、犯人は誰ですかな。家内は、誰も見なかったと云ってます」

法水はいつものように、
「全く神秘的な事件です。ですから、指紋が取れようが
糸が切れていようが、到底駄目なのです。要するに、あの底深い
大観を闡明せずには事件の解決が不可能なのですよ。つまり、
臨検家が幻想家となる時期にですな」
と、彼らしく答える。
「いや、儂はそういう哲学問答は不得手でしてな」と博士は
目をしばたく。よかった、この人はこっち側の人ですね。

押鐘博士は遺言状の開封には反対のようす。
でも法水が算哲博士埋葬の夜に切れた糸のことを話すと、
みるみる青ざめていく。
旗太郎はきょとんとして、「糸って、弩の絃のことを
お話しかと思いましたよ」と言っている。

「僕は、白紙だと信じているのです。詳細に云いますと、
白紙に変えられたのだ――と」法水が云うと、
驚いた博士は気色ばむ。そして当時の状況を教えてくれる。

昨年3月12日。
今日偶然思い立った、と呼びつけられ、書斎で遺言書を
作成するのを見守る。書簡紙2枚に認め終わると、金粉をまいて
廻転封輪で捺した。(シーリングワックスだろうか?)
2葉を金庫に納め、当夜は部屋の内外に張番を立て、
翌日発表を行うことになった。
だが翌朝、ずらりと並べた家族の前で、博士はその中の1葉を
破ってしまった。焼いて灰をこなごなにして窓からまいた。
そして残った1葉を厳封して、金庫の中に納め、死後1年目に
開くよう申し渡した。
だからあの金庫は、未だ開く時期が到来していないのです。

押鐘博士はしばらく考えていたが、法水に詰められて
遺言書を開くことに賛成してくれる。二人で取ってきて、
衆人環視の中で開封する。内容は次のとおり。

一、遺産は、旗太郎並びにグレーテ・ダンネベルグ以下の
四人に対し、均等に配分するものとす。

二、尚、館の地域以外への外出・恋愛・結婚、並びに、
この一書の内容を口外したるものは、直ちにその権利を
剥奪さるるものとす。但し、その失いたる部分は、それを
按分に分割して、他に均霑されるものなり。

旗太郎は、幾分がっかりすれどもホッとしたように、
「これですよ法水さん、やっとこれで、僕は自由になれました」
と嬉しそうにする。
黙っておくのがしんどかったんだろう。

勝った立場のはずの博士は妙におどおどした様子で、
「これでやっと儂の責任が終わりましたよ。然し、蓋を
明けても明けなくても、結論は既に明白です。要するに問題は
均分率の増加にあるのですからな」

法水たちは広間を出て、階上を通りすがりに伸子の部屋へ入る。
伸子に、神意審問会の直前にダンネベルグ夫人とした口論の
ことを訊ねる。

私も、夫人がなぜ怒ったのか不思議なのです、と
伸子は状況を説明してくれる。
晩食後1時間頃、図書館に戻す本を書棚から取りだそうとして
よろめいて、本をそばの乾隆硝子の大花瓶に当てて倒して
しまった。
ひどい物音はしたけれど、お叱りを受けるほどのことはない
――はずなのに、夫人がすぐに来て。

乾隆(けんりゅう)ガラスはソーダガラスのこと。
一般的な素材で、クリスタルガラスに比べると硬くて丈夫。
だから、倒れただけで割れなかったのではないだろうか。
割れたという描写もないし、書棚があるような部屋には
絨毯が敷いてありそうだし。
倒れただけなら、たしかに怒るほどのことではないよな。

ダンネベルグ夫人は尼僧のような性格なのに、
あの時は偏見と狂乱の怪物でしかなかった。
私のことを、馬黒屋の娘……賤民と。竜見川学園の保母、
それから寄生木とまで罵られた。
私だって、御用のない此の館にいつまでも御厄介になって
居ります事が、どんなに心苦しいことか。

この後の問答の時系列がちょっとよく分からない。

法水が「夫人がこのドアを開いた際を見ましたか」と聞く。
その時はあいにく部屋を空けていた。
バトラーの部屋へ花瓶の後始末を頼みに云っていたので。
戻ってきたら、夫人が寝室の中にいた。
たぶん私を探しに、寝室へ入ったのだと思う。
見ていたらそばの椅子を引き寄せて、帷幕の間へ座った。

そもそも花瓶があった部屋がどこなのかがイマイチ
分からないんだけど、どこかで怒られた後、
伸子の自室まで追いかけてきたということなのだろうか。

法水は、「この事件の動機が遺産にあるにせよ、身辺に
充分御注意なさった方がいいですよ。家族の人達とは
あまり繁々と接近なさらないように――」と意味ありげに
忠告して部屋を出る。

そのドアの右手3尺ほどのところに木目のささくれが出ていて、
黒ずんだ衣服の繊維がひっかかっていた。
ダンネベルグ夫人の着衣の右肩に、1ヶ所鉤裂きがあったが、
これはまた難しい問題だ。ふつうに想像される姿勢で入った
なら、そのささくれに右肩を触れる道理がないからだ。

法水は暗い廊下を一人で歩いていき、窓をあけて
外へ大きく呼吸を吐いた。
しばらくその場を離れず耳を凝らしていると、10数分経って、
何処からかコトリコトリと歩む跫音が聞こえてきた。
それが離れていくと、再び伸子の部屋へ入った。

2、3分で出てくると、今度はその背面のレヴェズの部屋の
前に立った。法水がドアのノブを引いた時、
異様な情熱がこもった視線で、まるで野獣のように、
荒々しい吐息を吐いてレヴェズが迫ってきた。

   *

急展開!



(進捗・336/469ページ)

にほんブログ村 ハンドメイドブログ あみぐるみへ



スポンサーサイト




  テーマ:読んだ本の感想等 ジャンル:小説・文学
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック