2023年04月01日 (土) | 編集 |
今期の朝ドラ「舞いあがれ!」が完結しましたね。
娘が小さい頃、お料理好きにしてくれたまいんちゃんが
主演ということで、楽しみに見ていました。
この作品は3人の脚本家さんがリレー形式で担当する、
というのが特色だったと思います。
「サザエさん」みたいな1話完結型のアニメーションとかは
複数人脚本家さんがいることもふつうにありますが、
連続ドラマでそういうのって、珍しいように思います。
担当する分量は1/3ずつ、というわけではなく、
7割、2割、1割、くらいの割合に感じました。
メインを担当された桑原亮子さんは、脚本家であるとともに
歌人でもあるそうで、
作中にも短歌や、それにまつわるエピソードなどが
印象的に採り入れられていました。
ツイッターを見ていると、俵万智さんが作品に関する歌を
投稿されていたり、誰もがついつい自分も短歌をよみたく
なってくるような、そんな唯一無二の作品世界でした。
桑原さんの世界観が好きな方は多かったようで、
他の脚本家さんに変わった週は
「なんかコレじゃない」的な意見もよく見ました。
登場人物が、言わなさそうなことを言ったり
しなさそうなことをして違和感を覚えたり、
ストーリーの運びに疑問を感じたり。
ひとの作風を引き継いで、それに合わせて物語を作ることって
難しいんでしょうか。
二人でひとつの作品を作ることは、
漫画界ではよくありますね。
でも漫画の場合は「原作者」+「漫画家」のコンビなので、
二人でひとつのストーリーを交互にかく、ということではないですね。
小説家としては、二人でひとつの筆名で活動されていたのは
エラリー・クイーンと岡嶋二人さんしか思いつかないけど
どちらも、執筆はお一人が担当されていたと聞きます。
やはり、作品世界というのは、一人でしか
生み出せないものなのかな。
ただ だいぶ昔、「風と共に去りぬ」の続編
「スカーレット」を読んだことがあるんです。
それはマーガレット・ミッチェルではない別の方が
書かれたもの(の翻訳)なのですが、
登場人物の性格からしゃべり方から、
全く違和感なく読めて驚いた記憶があります。
こんなにも似せて書くことができるんだ!と。
(今あらためて調べてみると、当時アメリカでの
スカーレットの評判は、期待が高すぎたせいもあるのか
良くはなかったそうです。
そして訳者の森瑶子さんの、少しでも続編を待ち望んだ
読者たちが満足するようにとの思いをこめたアレンジが、
多分に入っているとのこと。
そのおかげで、日本人のわたしは不満なく読めたのかも
しれません)
そして清水義範さんというパスティーシュの名手も
いらっしゃるし、
不可能なことではないと思うんだよな。
そこまで考えて思ったのですが、
「似せて書こう」とか「世界観を統一しよう」とか
別に思ってなかった可能性がありますね。
自分自身の作品を世に出し、次の仕事へつなげていきたいと
思うのは、当然のことかもしれません。
桑原さんの世界を見たいと思うのは
視聴者の立場からの勝手な願望ですもんね。
いや~でもそう思ってしまうのも無理がないほどの
大切に作られた世界観でした。
15分見終わった後、心があたたかくなっていて、
ふりかえってもごくごく何気ないできごとのシーンなのに
なんでこんな幸せな気分になってるんだろう?って
不思議に思う日が何度もあったんですよね。
すばらしい才能だなと思いました。
*
ところで、わたしはずっと福原遥さんを
クッキンアイドルの番組が終わってからも
「まいんちゃん」と呼んでいて、
「今週のすイエんサーにまいんちゃん出てるね」とか
「まいんちゃんが朝ドラの主人公やるって!」とか
言っちゃってるのですが、
これ失礼なことかな……、という気もしていたのです。
過去の作品のことを言われ続けるのイヤかな、と。
でも「あさイチ」にゲスト出演された時、
まいんちゃんと呼ばれることはイヤではない、
今でもまいんを覚えてくれていることが嬉しい、
これからも、役の名前で呼んでもらえるような作品を
演じていけたらいいと思う、
ということを仰っていて、
呼んでもいいんだ~ってホッとしたり
ほんとにすてきな方だなぁと思ったり、
まいんちゃんずっと推してく!って思いました(^^)
*
スケールは違うけれどわたしも物を作ることが好きだから、
試行錯誤で物作りをしていくシーンの多いこの作品は
わくわくしました。
既にあるものや人から与えられるものを勝ち取る、ではなく
いちから創り上げて夢を叶える、というのは
あらためてふり返って考えるとなかなかに勇猛果敢な
ヒロインですね。カッコいい。
キャストや主題歌もよくて、
すてきな作品を楽しめた半年間でした。

娘が小さい頃、お料理好きにしてくれたまいんちゃんが
主演ということで、楽しみに見ていました。
この作品は3人の脚本家さんがリレー形式で担当する、
というのが特色だったと思います。
「サザエさん」みたいな1話完結型のアニメーションとかは
複数人脚本家さんがいることもふつうにありますが、
連続ドラマでそういうのって、珍しいように思います。
担当する分量は1/3ずつ、というわけではなく、
7割、2割、1割、くらいの割合に感じました。
メインを担当された桑原亮子さんは、脚本家であるとともに
歌人でもあるそうで、
作中にも短歌や、それにまつわるエピソードなどが
印象的に採り入れられていました。
ツイッターを見ていると、俵万智さんが作品に関する歌を
投稿されていたり、誰もがついつい自分も短歌をよみたく
なってくるような、そんな唯一無二の作品世界でした。
桑原さんの世界観が好きな方は多かったようで、
他の脚本家さんに変わった週は
「なんかコレじゃない」的な意見もよく見ました。
登場人物が、言わなさそうなことを言ったり
しなさそうなことをして違和感を覚えたり、
ストーリーの運びに疑問を感じたり。
ひとの作風を引き継いで、それに合わせて物語を作ることって
難しいんでしょうか。
二人でひとつの作品を作ることは、
漫画界ではよくありますね。
でも漫画の場合は「原作者」+「漫画家」のコンビなので、
二人でひとつのストーリーを交互にかく、ということではないですね。
小説家としては、二人でひとつの筆名で活動されていたのは
エラリー・クイーンと岡嶋二人さんしか思いつかないけど
どちらも、執筆はお一人が担当されていたと聞きます。
やはり、作品世界というのは、一人でしか
生み出せないものなのかな。
ただ だいぶ昔、「風と共に去りぬ」の続編
「スカーレット」を読んだことがあるんです。
それはマーガレット・ミッチェルではない別の方が
書かれたもの(の翻訳)なのですが、
登場人物の性格からしゃべり方から、
全く違和感なく読めて驚いた記憶があります。
こんなにも似せて書くことができるんだ!と。
(今あらためて調べてみると、当時アメリカでの
スカーレットの評判は、期待が高すぎたせいもあるのか
良くはなかったそうです。
そして訳者の森瑶子さんの、少しでも続編を待ち望んだ
読者たちが満足するようにとの思いをこめたアレンジが、
多分に入っているとのこと。
そのおかげで、日本人のわたしは不満なく読めたのかも
しれません)
そして清水義範さんというパスティーシュの名手も
いらっしゃるし、
不可能なことではないと思うんだよな。
そこまで考えて思ったのですが、
「似せて書こう」とか「世界観を統一しよう」とか
別に思ってなかった可能性がありますね。
自分自身の作品を世に出し、次の仕事へつなげていきたいと
思うのは、当然のことかもしれません。
桑原さんの世界を見たいと思うのは
視聴者の立場からの勝手な願望ですもんね。
いや~でもそう思ってしまうのも無理がないほどの
大切に作られた世界観でした。
15分見終わった後、心があたたかくなっていて、
ふりかえってもごくごく何気ないできごとのシーンなのに
なんでこんな幸せな気分になってるんだろう?って
不思議に思う日が何度もあったんですよね。
すばらしい才能だなと思いました。
*
ところで、わたしはずっと福原遥さんを
クッキンアイドルの番組が終わってからも
「まいんちゃん」と呼んでいて、
「今週のすイエんサーにまいんちゃん出てるね」とか
「まいんちゃんが朝ドラの主人公やるって!」とか
言っちゃってるのですが、
これ失礼なことかな……、という気もしていたのです。
過去の作品のことを言われ続けるのイヤかな、と。
でも「あさイチ」にゲスト出演された時、
まいんちゃんと呼ばれることはイヤではない、
今でもまいんを覚えてくれていることが嬉しい、
これからも、役の名前で呼んでもらえるような作品を
演じていけたらいいと思う、
ということを仰っていて、
呼んでもいいんだ~ってホッとしたり
ほんとにすてきな方だなぁと思ったり、
まいんちゃんずっと推してく!って思いました(^^)
*
スケールは違うけれどわたしも物を作ることが好きだから、
試行錯誤で物作りをしていくシーンの多いこの作品は
わくわくしました。
既にあるものや人から与えられるものを勝ち取る、ではなく
いちから創り上げて夢を叶える、というのは
あらためてふり返って考えるとなかなかに勇猛果敢な
ヒロインですね。カッコいい。
キャストや主題歌もよくて、
すてきな作品を楽しめた半年間でした。

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2022年03月07日 (月) | 編集 |
文豪ストレイドッグスの外伝のコミカライズの
2巻が出ました。(の が多くてスミマセン)

文ストは娘が好きな作品なので
わたしもついでにアニメ見たりしてるんですが、
この「現在の文豪」が登場する "外伝" は
かねてより大ファンの綾辻先生がキャラとして出るので
わたくし自身が率先して購入しております。
すごく久々に新刊が出たので奥付を見てみたら、
1巻は2018年の発売でした。
もう続き出ないのかな?って思っていたので、
また出てよかったです。

というわけで、新刊発売記念で
ミニチュアを作ってみました。
1巻と、原作小説もいっしょに。
文豪ストレイドッグスは
派生作品もそれぞれに漫画化されていて、
今回は本編併せて4作品が同時に新刊刊行!という
おまつり的なキャンペーンでした。
(娘も本編の新刊を買っていました)
別々の漫画家さんが描いてらっしゃるんですけど、
いずれも絵がきれいで、感心します。

1巻がどのへんまでで終わってたか完全に忘れたし、
また最初から読もうかなと思います。
綾辻先生がカッコいいんですよ(^^)

2巻が出ました。(の が多くてスミマセン)

文ストは娘が好きな作品なので
わたしもついでにアニメ見たりしてるんですが、
この「現在の文豪」が登場する "外伝" は
かねてより大ファンの綾辻先生がキャラとして出るので
わたくし自身が率先して購入しております。
すごく久々に新刊が出たので奥付を見てみたら、
1巻は2018年の発売でした。
もう続き出ないのかな?って思っていたので、
また出てよかったです。

というわけで、新刊発売記念で
ミニチュアを作ってみました。
1巻と、原作小説もいっしょに。
文豪ストレイドッグスは
派生作品もそれぞれに漫画化されていて、
今回は本編併せて4作品が同時に新刊刊行!という
おまつり的なキャンペーンでした。
(娘も本編の新刊を買っていました)
別々の漫画家さんが描いてらっしゃるんですけど、
いずれも絵がきれいで、感心します。

1巻がどのへんまでで終わってたか完全に忘れたし、
また最初から読もうかなと思います。
綾辻先生がカッコいいんですよ(^^)

2022年02月16日 (水) | 編集 |
娘が学校の図書室で借りた本を読んでいました。
クラスでビブリオバトルがあって、
どなたかがお勧めしていて興味を引かれたので
借りてきたとのこと。
その辺に置いてあったのを何気なく見たら
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」という翻訳物でした。

珍しいなと思い、
「サリンジャーかぁ。何か有名な代表作あったよね、
"ライ麦畑でつかまえて" だっけ」
と言ったら、
「それがこれだよ」
と言われて、え!? ってわりと大きめの声が出てしまいました。
原題初めて知りました。
今は原題そのままで出版されているんですね。
わりと近年、あらためて翻訳されたもののようで、
訳者は村上春樹さんです。
「タイトルは有名で知ってるけど読んだことない」
という本って結構ありますね。
わたしはこの本、そういう中の1冊でした。
良い機会なので、ついでに読ませてもらうことにしました。
ちなみに、「ライ麦畑でつかまえて」という
タイトルからわたしが想像していた内容は、
古き良きアメリカ西部のとある村。
幼馴染みの少女と少年。
どこまでも広がる金色のライ麦畑の中で
時間を忘れて追いかけあったかけがえのないあの頃・・・
時は流れ、都会の片隅で必死に今日を生きる
女性と青年が、ふとしたことで再会し・・・
みたいな感じでした。(大外れであったことが後に分かる)
そんな「前知識ゼロ」で読んでいくと、
なかなかに捉えどころのないお話です。
どんなストーリーなのかまだ分からない、
まだ分からない(もう半分過ぎたのに)、
え、このまま終わっちゃうのか?
でおしまいまで来てしまった感じ。
少しずつ分かっていくことをまとめると
主人公は、社会人の兄や小学生の妹もいる
おそらく高校生くらいの男子生徒。
クリスマスを目前に控えた時期に
なんと4回目の退学を食らったらしい。
未成年にも関わらず飲酒と喫煙の習慣がある。
将来の夢も、目標も、やる気も、協調性も、
親への感謝も、いっさいない人。
この本は多分、読んだ時の年齢や立場によって
感想がだいぶ違うのではないかと思います。
今のわたしは主人公の親世代くらいの年代で、
(あらぁしょうもない子ねぇ。親御さん大変だわ)
と思うのですが、若い頃読んでいたら
主人公に対してイライラしちゃったかも
しれないなと思います。
ちゃんとしてないのに文句は一丁前なので。
物語は主人公の変則的な一人称で語られます。
変則的な……というのは、時折 急に
「君だってそう思うだろ?」
とか言ってくることがあるからです。
最初にそう言われた時は驚きました。
「君」が誰なのか、語られないのですが
主人公は現在 結核?か何かで療養しているらしく、
「君」も、隣のベッドに入院している
同世代くらいの患者だったりするのかなと
想像しながら読んでいました。
主人公は、また退学を食らって親に伝えないと
いけないけれどまだ伝えていない、そんな
最悪のコンディションだった数日間の出来事を語ります。
何が起こってその時どう思ったかを
実に事細かに語り、折々に
前の学校の級友とか幼少期の幼馴染みなどの
エピソードを怒濤のごとく挟んできます。
セルマ・サーマー、ザンベジ先生、ロバート・ティチナー、
ポール・キャンベル、ウォード・ストラドレイター・・・
とても覚えきれないのでメモりながら読んでいましたが、
最終的に50人以上になっていました。
そんな調子なのでメインの話はなかなか進まないのですが、
たぶんストーリーの展開を楽しむタイプの小説では
ないんだろうな、と後から思いました。
全体的な印象としては、主人公をとりまく環境が
とにかく「民度が低い」。
通っていた学校の寄宿舎は「こそ泥の巣窟」みたいに
書かれていました。級友も品位に欠けたり
常軌を逸して不潔だったりします。
3度も退学で転校して、そのたびに通う学校の偏差値が
下がっているのでしょうし、
主人公自体のふるまいも非常識で自ら盛り場へ足を
踏み入れているわけなので、周りの環境の悪さは
自業自得、因果応報と言えるのかもしれません。
でもまぁ、オバちゃんの立場から見ると、
ちょっと可哀想にも思いました。
もうちょっと運が向いて、良い環境で暮らせたら
良かったのにねぇって。
主人公は、身の回りで起こる出来事、会う人々に
つねに不満を持ち、心の中で不平を唱え、
謎の上から目線で他人を哀れみ、
被害者意識が強く、心をくさくささせています。
こうなってしまっている人の考え方を変えるのは
特にこういう環境の中では難しいと思うけれど、
終盤とある人物に「あなたはけっきょく、
世の中のすべてが気に入らないのよ」
と両断されています。
まだ、まともなことを言ってもらえるんだな……と
ギリギリ手遅れじゃないような気がして
このくだりは印象に残りました。
この「ライ麦畑でつかまえて」という作品は、
1951年出版だそうです。
およそ70年にわたって(外国である日本でまで)
読み継がれているので、
"不朽の名作" ということですよね。
これ、どこがそんなに評価されているんだろう。
読み終わって、それをずっと考えていました。
同じような立場の人には刺さるということでしょうか。
それって自堕落な若者ということです。
若くてもちゃんとしている人はいるので
世界がこの主人公みたいな人間ばっかりとは
さすがに思えないけど……。
考えながらひとつの仮説を思いつきました。
この主人公は、とにかく話が大げさです。
「数マイル離れて歩いた」とか「100万個くらいある」とか
息をするように話を盛ります。
自分の発言が正確でないことに対する罪悪感とか、
それが正しいことではないという認識は、なさそう。
そういう人間が語ることは、
果して実際に起こったと言えるのでしょうか。
エピソードのうちのいくつかは、嘘なのでは??
読んでいてたびたび
「まだ寝ないのか」
と疑問に思いました。
夜寄宿舎で学友とひとモメして、
駅まで歩いていって列車に乗って町へ出て、
ホテルをとって、また町へ出て、
酒場でしばらく過ごして、ホテルへ戻って、
娼婦とひとモメして、やっと寝ます。
(わたしは学校で友達とモメた辺りから既に
「いいから早く寝ろ」と思っていました。
学友の中には既に就寝している生徒もいる時間帯だったからです)
語られたエピソードに嘘が混じっているのなら、
一晩で起こるには多すぎる出来事の説明がつきます。
というかもう、すべてが嘘まである。
どこからどこまでが実際に起こったことで、
自分がどんな嘘をついたのか、
主人公には分からなくなっているのかもしれない。
だとしたら、あの謎の「君」という存在は、
もしかしたら入院患者仲間ではなく
カウンセラだったりするのかもしれません。
主人公が今、どこかの病院に入院しているのは
おそらく確かなのだろうと思います。
でもそこは、彼が言うような呼吸器系の身体的な疾患を
治療する病院ではないのかもしれない。
(最終段でチラッと「精神分析医が熱心に質問してくる」
と言っている描写もあります)
未成年のうちからだいぶ飲酒量が多かったようなので、
その影響もあるかもしれません。
彼はひょっとしたらもう学生の年代ではないかもしれず、
弁護士の父親もおらず、
そばで(仕事として)静かに話を聞いてくれる "君" に、
あったかもしれない若い頃、
いたかもしれない自分、の話をしている・・・
もしこれが真相で、
主人公の語る膨大な話が全てちりばめられた伏線だとしたら、
これは確かに傑作だ!とミステリ好きなわたしは思いました。
(最後まで種明かしされていないのも実に鮮やか)
・・・まぁ、それはないのかな。
わたしは、そうだった方がこの小説を楽しめますが。
ところで、「ライ麦畑でつかまえて」というタイトルの
由来はやはり読みながら気になっていて、
その疑問はちゃんと解けました。
ロバート・バーンズという方の詩の一節なのですね。
このフレーズにからめて主人公が語ることは、
もうまさに全部がゴミ溜めのようなこの話の中で、
なんだろう、めちゃくちゃ透明な水晶のような
純粋な美しさを感じる言葉でした。
これもまたその場の思いつきや出まかせなのかもしれないけれど、
そうだとしても、この発想が主人公の中にあったことに驚くし
こんなことを考えられるなら、主人公、まだまだぜんぜん
すてたもんじゃないよ、と思いました。
これがタイトルになっていること、素晴らしいと思います。
この本はきっと、10年おきくらいに読み返したら
自分の中に全く違う感情が起こったりして楽しめそうですね。
わたしも、10代の時に読んでおくべきだったな~

クラスでビブリオバトルがあって、
どなたかがお勧めしていて興味を引かれたので
借りてきたとのこと。
その辺に置いてあったのを何気なく見たら
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」という翻訳物でした。

珍しいなと思い、
「サリンジャーかぁ。何か有名な代表作あったよね、
"ライ麦畑でつかまえて" だっけ」
と言ったら、
「それがこれだよ」
と言われて、え!? ってわりと大きめの声が出てしまいました。
原題初めて知りました。
今は原題そのままで出版されているんですね。
わりと近年、あらためて翻訳されたもののようで、
訳者は村上春樹さんです。
「タイトルは有名で知ってるけど読んだことない」
という本って結構ありますね。
わたしはこの本、そういう中の1冊でした。
良い機会なので、ついでに読ませてもらうことにしました。
ちなみに、「ライ麦畑でつかまえて」という
タイトルからわたしが想像していた内容は、
古き良きアメリカ西部のとある村。
幼馴染みの少女と少年。
どこまでも広がる金色のライ麦畑の中で
時間を忘れて追いかけあったかけがえのないあの頃・・・
時は流れ、都会の片隅で必死に今日を生きる
女性と青年が、ふとしたことで再会し・・・
みたいな感じでした。(大外れであったことが後に分かる)
そんな「前知識ゼロ」で読んでいくと、
なかなかに捉えどころのないお話です。
どんなストーリーなのかまだ分からない、
まだ分からない(もう半分過ぎたのに)、
え、このまま終わっちゃうのか?
でおしまいまで来てしまった感じ。
少しずつ分かっていくことをまとめると
主人公は、社会人の兄や小学生の妹もいる
おそらく高校生くらいの男子生徒。
クリスマスを目前に控えた時期に
なんと4回目の退学を食らったらしい。
未成年にも関わらず飲酒と喫煙の習慣がある。
将来の夢も、目標も、やる気も、協調性も、
親への感謝も、いっさいない人。
この本は多分、読んだ時の年齢や立場によって
感想がだいぶ違うのではないかと思います。
今のわたしは主人公の親世代くらいの年代で、
(あらぁしょうもない子ねぇ。親御さん大変だわ)
と思うのですが、若い頃読んでいたら
主人公に対してイライラしちゃったかも
しれないなと思います。
ちゃんとしてないのに文句は一丁前なので。
物語は主人公の変則的な一人称で語られます。
変則的な……というのは、時折 急に
「君だってそう思うだろ?」
とか言ってくることがあるからです。
最初にそう言われた時は驚きました。
「君」が誰なのか、語られないのですが
主人公は現在 結核?か何かで療養しているらしく、
「君」も、隣のベッドに入院している
同世代くらいの患者だったりするのかなと
想像しながら読んでいました。
主人公は、また退学を食らって親に伝えないと
いけないけれどまだ伝えていない、そんな
最悪のコンディションだった数日間の出来事を語ります。
何が起こってその時どう思ったかを
実に事細かに語り、折々に
前の学校の級友とか幼少期の幼馴染みなどの
エピソードを怒濤のごとく挟んできます。
セルマ・サーマー、ザンベジ先生、ロバート・ティチナー、
ポール・キャンベル、ウォード・ストラドレイター・・・
とても覚えきれないのでメモりながら読んでいましたが、
最終的に50人以上になっていました。
そんな調子なのでメインの話はなかなか進まないのですが、
たぶんストーリーの展開を楽しむタイプの小説では
ないんだろうな、と後から思いました。
全体的な印象としては、主人公をとりまく環境が
とにかく「民度が低い」。
通っていた学校の寄宿舎は「こそ泥の巣窟」みたいに
書かれていました。級友も品位に欠けたり
常軌を逸して不潔だったりします。
3度も退学で転校して、そのたびに通う学校の偏差値が
下がっているのでしょうし、
主人公自体のふるまいも非常識で自ら盛り場へ足を
踏み入れているわけなので、周りの環境の悪さは
自業自得、因果応報と言えるのかもしれません。
でもまぁ、オバちゃんの立場から見ると、
ちょっと可哀想にも思いました。
もうちょっと運が向いて、良い環境で暮らせたら
良かったのにねぇって。
主人公は、身の回りで起こる出来事、会う人々に
つねに不満を持ち、心の中で不平を唱え、
謎の上から目線で他人を哀れみ、
被害者意識が強く、心をくさくささせています。
こうなってしまっている人の考え方を変えるのは
特にこういう環境の中では難しいと思うけれど、
終盤とある人物に「あなたはけっきょく、
世の中のすべてが気に入らないのよ」
と両断されています。
まだ、まともなことを言ってもらえるんだな……と
ギリギリ手遅れじゃないような気がして
このくだりは印象に残りました。
この「ライ麦畑でつかまえて」という作品は、
1951年出版だそうです。
およそ70年にわたって(外国である日本でまで)
読み継がれているので、
"不朽の名作" ということですよね。
これ、どこがそんなに評価されているんだろう。
読み終わって、それをずっと考えていました。
同じような立場の人には刺さるということでしょうか。
それって自堕落な若者ということです。
若くてもちゃんとしている人はいるので
世界がこの主人公みたいな人間ばっかりとは
さすがに思えないけど……。
考えながらひとつの仮説を思いつきました。
この主人公は、とにかく話が大げさです。
「数マイル離れて歩いた」とか「100万個くらいある」とか
息をするように話を盛ります。
自分の発言が正確でないことに対する罪悪感とか、
それが正しいことではないという認識は、なさそう。
そういう人間が語ることは、
果して実際に起こったと言えるのでしょうか。
エピソードのうちのいくつかは、嘘なのでは??
読んでいてたびたび
「まだ寝ないのか」
と疑問に思いました。
夜寄宿舎で学友とひとモメして、
駅まで歩いていって列車に乗って町へ出て、
ホテルをとって、また町へ出て、
酒場でしばらく過ごして、ホテルへ戻って、
娼婦とひとモメして、やっと寝ます。
(わたしは学校で友達とモメた辺りから既に
「いいから早く寝ろ」と思っていました。
学友の中には既に就寝している生徒もいる時間帯だったからです)
語られたエピソードに嘘が混じっているのなら、
一晩で起こるには多すぎる出来事の説明がつきます。
というかもう、すべてが嘘まである。
どこからどこまでが実際に起こったことで、
自分がどんな嘘をついたのか、
主人公には分からなくなっているのかもしれない。
だとしたら、あの謎の「君」という存在は、
もしかしたら入院患者仲間ではなく
カウンセラだったりするのかもしれません。
主人公が今、どこかの病院に入院しているのは
おそらく確かなのだろうと思います。
でもそこは、彼が言うような呼吸器系の身体的な疾患を
治療する病院ではないのかもしれない。
(最終段でチラッと「精神分析医が熱心に質問してくる」
と言っている描写もあります)
未成年のうちからだいぶ飲酒量が多かったようなので、
その影響もあるかもしれません。
彼はひょっとしたらもう学生の年代ではないかもしれず、
弁護士の父親もおらず、
そばで(仕事として)静かに話を聞いてくれる "君" に、
あったかもしれない若い頃、
いたかもしれない自分、の話をしている・・・
もしこれが真相で、
主人公の語る膨大な話が全てちりばめられた伏線だとしたら、
これは確かに傑作だ!とミステリ好きなわたしは思いました。
(最後まで種明かしされていないのも実に鮮やか)
・・・まぁ、それはないのかな。
わたしは、そうだった方がこの小説を楽しめますが。
ところで、「ライ麦畑でつかまえて」というタイトルの
由来はやはり読みながら気になっていて、
その疑問はちゃんと解けました。
ロバート・バーンズという方の詩の一節なのですね。
このフレーズにからめて主人公が語ることは、
もうまさに全部がゴミ溜めのようなこの話の中で、
なんだろう、めちゃくちゃ透明な水晶のような
純粋な美しさを感じる言葉でした。
これもまたその場の思いつきや出まかせなのかもしれないけれど、
そうだとしても、この発想が主人公の中にあったことに驚くし
こんなことを考えられるなら、主人公、まだまだぜんぜん
すてたもんじゃないよ、と思いました。
これがタイトルになっていること、素晴らしいと思います。
この本はきっと、10年おきくらいに読み返したら
自分の中に全く違う感情が起こったりして楽しめそうですね。
わたしも、10代の時に読んでおくべきだったな~

2021年12月11日 (土) | 編集 |
娘が漢文の予習をしていたので、
ちょっと見せてもらいました。

「鶏口牛後」という故事成語でした。
「鶏口となるも牛後となるなかれ」のやつですね。
わたしも高校の時に知った言葉ですが、
語句の成り立ちまでは習わなかったので
どんな由来の故事なんだろ、と見てみました。
「秦人」から始まるその文章を読んでいくと、
アレ?これキングダムの時代の話だな、と思いました。

地図もまさしく、漫画で見るあの配置です。

わたしはめちゃくちゃ詳しいファンという
わけではないけれど、
「趙」が秦を攻めたい、とか
趙から見たら秦に攻め入るなら「西に向かう」よな、
というのは、スッと把握できます。

なんなら「秦」「趙」「燕」「洛陽」などが
国名や地名を表す字だ、ということが
自然と分かるので、それだけでも
文章を読むのにかなり助けになるなと思いました。

そして三段落からなるこの故事の、一段落目の最後が
「ここに於いて、六国 従合す」
で結ばれていて、
うわわ、これ合従軍の話か!って
テンション上がっちゃいました。
(合従軍編、めちゃくちゃ面白かったですよね……)
漫画は役に立ちますね・・・
学校の古典の先生も、キングダムや三国志読んどくと
漢文を読む時助かるよ、みたいに
お勧めされてたことがあるそうです。
娘はキングダムを未読なのですが、
まさにそれが効果を発揮することを経験したので、
冬休みに一気読みする! と言っていました。
*
ちなみに「鶏口となるも牛後となるなかれ」の
フレーズは、一段落目の終わり(六国従合すの前)に
ババン!と出てきます。
じゃあこの後、合従軍の戦いが描写されるのかな?と
ワクワクして読み進んでみると、
意外にも、
急に いけすかない兄嫁の悪口が始まって、
ぶしつけな兄嫁をへこましてやったぜ!みたか!
みたいな話になっていったので、
「え?ええ?(^^;)」って感じでした。
わたしが意味を正しくとれてないのかもしれないけれど、
思ってたんと全然違って笑えてしまいました。
いや~
キングダム読み返したくなってきました。
わたしは騰将軍が好きです。

ちょっと見せてもらいました。

「鶏口牛後」という故事成語でした。
「鶏口となるも牛後となるなかれ」のやつですね。
わたしも高校の時に知った言葉ですが、
語句の成り立ちまでは習わなかったので
どんな由来の故事なんだろ、と見てみました。
「秦人」から始まるその文章を読んでいくと、
アレ?これキングダムの時代の話だな、と思いました。

地図もまさしく、漫画で見るあの配置です。

わたしはめちゃくちゃ詳しいファンという
わけではないけれど、
「趙」が秦を攻めたい、とか
趙から見たら秦に攻め入るなら「西に向かう」よな、
というのは、スッと把握できます。

なんなら「秦」「趙」「燕」「洛陽」などが
国名や地名を表す字だ、ということが
自然と分かるので、それだけでも
文章を読むのにかなり助けになるなと思いました。

そして三段落からなるこの故事の、一段落目の最後が
「ここに於いて、六国 従合す」
で結ばれていて、
うわわ、これ合従軍の話か!って
テンション上がっちゃいました。
(合従軍編、めちゃくちゃ面白かったですよね……)
漫画は役に立ちますね・・・
学校の古典の先生も、キングダムや三国志読んどくと
漢文を読む時助かるよ、みたいに
お勧めされてたことがあるそうです。
娘はキングダムを未読なのですが、
まさにそれが効果を発揮することを経験したので、
冬休みに一気読みする! と言っていました。
*
ちなみに「鶏口となるも牛後となるなかれ」の
フレーズは、一段落目の終わり(六国従合すの前)に
ババン!と出てきます。
じゃあこの後、合従軍の戦いが描写されるのかな?と
ワクワクして読み進んでみると、
意外にも、
急に いけすかない兄嫁の悪口が始まって、
ぶしつけな兄嫁をへこましてやったぜ!みたか!
みたいな話になっていったので、
「え?ええ?(^^;)」って感じでした。
わたしが意味を正しくとれてないのかもしれないけれど、
思ってたんと全然違って笑えてしまいました。
いや~
キングダム読み返したくなってきました。
わたしは騰将軍が好きです。

2021年06月30日 (水) | 編集 |
昨日のミニチュア(↓これ)を作るために、
家にあったどこでもいっしょ関連の書籍を
いろいろと出しました。

ついでにそれぞれ ぱらぱらしてみたのですが、
どれも開くのが久しぶりなので
既に読んだことあるはずなのに かなり新鮮でした。

この「公式ファンブック」は
シリーズ最新作が「トロと休日(PS2)」だった
2002年5月の発行で、約20年前のものですが、

載ってるグッズが今でも現役で
うちで使っているものもけっこうあって、
「生まれる前のものなのになぜか知ってる」状態
になった娘が驚いて笑っていました。

あ~~マクドナルドのキャンペーンもありましたね。

会社に マック週4(!)食べてる先輩がいて
グッズをくれたので、
トレーディングカードも全部集まりました。

あとこれはゲーム誌の創刊キリ番記念号で、
ソニー(SCEI)の看板キャラとして表紙を飾っています。
発行は2005年2月。
シリーズとしての最新作は
PSP版の「どこでもいっしょ」が出たタイミングで、
その特集が組まれています。

アイドルさんかな、かわいい3人組の子たちが
遊び方を紹介しているのですが、
これがよく見たらPerfumeでびっくりしました。
「現役女子高生アイドルグループ」と
紹介されています。
長いこと一線で活躍されていて、すごいですね。
今やもうPerfumeに説明は要らないですからね。
他にも紹介はじめたらキリがないですが、
今回最も新鮮に驚いたのがこちら。

「トロと行く沖縄」。
公式ファンブックや電撃PlayStationとかは
家にあることを覚えていて、
(あの雑誌作ろう)と思って出してきたわけですが、
これについては全く記憶がなくて、
棚から出てきて(え?こんなのあったっけ)って
驚いたほどでした。
発行は2005年6月。
これ架空のものではなくて、
ちゃんと実在するお店や施設が載った、
るるぶやじゃらんみたいな旅行誌なんです。
こういうのって、「ちょっとキャラのイラスト
添えときゃいいだろ」的にいい加減に作ることも
できちゃうものだと思いますが、
これすごくしっかり作り込まれているんです。

ポケピたちがちゃんと沖縄を旅していて、
臨場感ある写真が満載です。
(つまり、メタ的な発言になるけれど、
写真の上にイラストを載せる、ではなく
写真にCGがちゃんと合成されている、ということ)
今でこそCGはもちろん、ARという技術も発達して
現実世界とキャラクタの融合が
比較的容易に行われるようになってきているけれど、
どこでもいっしょはCG技術の黎明期の作品です。
スーパーファミコンがPlayStationになった時。
実際のお店や路地裏の中で過ごすポケピたちの
リアルさが、愛着や魅力を高めた一因だったと思います。
その技術の粋がつまった旅行ムックであると
思うんですよね。

表紙もそうだけど、お店の方なんかが
そこにいるポケピとふれあってる風の写真も多くて、
いいんですよ。
すっかり忘れていたくせに熱弁するのも
アレですが・・・
素晴らしいコンテンツは、やっぱりキチンと
褒めておかなくては、と思って書いてみました。

家にあったどこでもいっしょ関連の書籍を
いろいろと出しました。

ついでにそれぞれ ぱらぱらしてみたのですが、
どれも開くのが久しぶりなので
既に読んだことあるはずなのに かなり新鮮でした。

この「公式ファンブック」は
シリーズ最新作が「トロと休日(PS2)」だった
2002年5月の発行で、約20年前のものですが、

載ってるグッズが今でも現役で
うちで使っているものもけっこうあって、
「生まれる前のものなのになぜか知ってる」状態
になった娘が驚いて笑っていました。

あ~~マクドナルドのキャンペーンもありましたね。

会社に マック週4(!)食べてる先輩がいて
グッズをくれたので、
トレーディングカードも全部集まりました。

あとこれはゲーム誌の創刊キリ番記念号で、
ソニー(SCEI)の看板キャラとして表紙を飾っています。
発行は2005年2月。
シリーズとしての最新作は
PSP版の「どこでもいっしょ」が出たタイミングで、
その特集が組まれています。

アイドルさんかな、かわいい3人組の子たちが
遊び方を紹介しているのですが、
これがよく見たらPerfumeでびっくりしました。
「現役女子高生アイドルグループ」と
紹介されています。
長いこと一線で活躍されていて、すごいですね。
今やもうPerfumeに説明は要らないですからね。
他にも紹介はじめたらキリがないですが、
今回最も新鮮に驚いたのがこちら。

「トロと行く沖縄」。
公式ファンブックや電撃PlayStationとかは
家にあることを覚えていて、
(あの雑誌作ろう)と思って出してきたわけですが、
これについては全く記憶がなくて、
棚から出てきて(え?こんなのあったっけ)って
驚いたほどでした。
発行は2005年6月。
これ架空のものではなくて、
ちゃんと実在するお店や施設が載った、
るるぶやじゃらんみたいな旅行誌なんです。
こういうのって、「ちょっとキャラのイラスト
添えときゃいいだろ」的にいい加減に作ることも
できちゃうものだと思いますが、
これすごくしっかり作り込まれているんです。

ポケピたちがちゃんと沖縄を旅していて、
臨場感ある写真が満載です。
(つまり、メタ的な発言になるけれど、
写真の上にイラストを載せる、ではなく
写真にCGがちゃんと合成されている、ということ)
今でこそCGはもちろん、ARという技術も発達して
現実世界とキャラクタの融合が
比較的容易に行われるようになってきているけれど、
どこでもいっしょはCG技術の黎明期の作品です。
スーパーファミコンがPlayStationになった時。
実際のお店や路地裏の中で過ごすポケピたちの
リアルさが、愛着や魅力を高めた一因だったと思います。
その技術の粋がつまった旅行ムックであると
思うんですよね。

表紙もそうだけど、お店の方なんかが
そこにいるポケピとふれあってる風の写真も多くて、
いいんですよ。
すっかり忘れていたくせに熱弁するのも
アレですが・・・
素晴らしいコンテンツは、やっぱりキチンと
褒めておかなくては、と思って書いてみました。
